日本の地方都市
【備上(びじょう)八幡市(はちまんし)】

 総人口3万5430人、うち1万6544人が市街地に住む。
 東西は延々と山々が続き、山一つ越えるたびにわずかな盆地に小さな集落が点在して おり、人口の半分はこういった山間部の集落に住んでいる。北(日本海側)は標高 1000~3000m級の山脈がつらなり、冬にはしばしば交通が遮断される。
列車で2時間ほど奥深い谷を抜けて走れば、南の平野部に出る。平野部には人口 200万人を超える政令指定都市【名古山市】がある。

 豊かな自然
 南北の山を貫くように水量豊かな清流、『八幡川』が流れ、その支流となる 『高梁(たかはし)川』が市街を西から東へと線を引く。
 渓谷状の川には鮎が豊富に生息しており、鮎の甘露煮は猪肉と共に、この地方の 特産品となっている。

 備上八幡市の歴史
 山間部の、わずかに開けた平野に進出したのが戦国大名の遠藤氏。
敵対する豪族から、『虎伏山(とらふせやま)』に築かれた砦を奪い、その地に 【備上八幡城(別名 霧ヶ城)】を築き、居城としたのが今から450年前―。
城は幾度となく戦乱に見舞われるも、戦国時代を通して遠藤氏が支配した。
その遠藤氏も関ヶ原の合戦で西軍につき、しかし西軍は一日にして敗れ、 敗戦後この地を追われた。遠藤氏に変わって入城したのが倉板氏。
倉板氏は明治の廃藩置県までこの地を平和に治めた。明治時代になると、 廃城令により、取り壊しを命じられた城は天守閣、他一部の櫓を残して 撤去された。
 戦後、昭和の築城ブームで門や櫓などが復元される。
こうして現在の備上八幡城は観光名所として新たな役割を与えられ、 毎年秋に行われる備上八幡時代祭りには、戦国時代の勇ましい甲冑を着こんだ 武者行列が市内から城までを練り歩き、大勢の観光客で賑わう事となった。
現在、山頂部の天守群は公園として整備され、藩政期に藩主の居館と政務の ための麓の城郭跡地には【県立備八高等学校】が建てられている。